登入航志に薬ケースを奪われてから、灰乃が最初にしたのは残っている予備薬をすべて机の上へ並べることだった。普段は銀色のケースへ数日分だけ移し、残りを別に保管していたため、完全に手元から失ったわけではない。それでも、袋から出した錠剤を一つずつ数えていくと、安心できる量ではなかった。終末以前のように病院へ行けば処方してもらえる世界ではなく、次に同じ薬が手に入る保証もない。広告恩寵で医療品が出る可能性はあるが、必要な薬剤を指定して引き当てられる仕組みではなかった。茉緒は灰乃の向かいへ座り、薬の包装と灰乃が覚えている処方内容を照らし合わせた。安全区域で検出された潜伏感染者が誰なのかは依然として分かっておらず、4人は一定距離を保ち、直接触れる物も共有しないようにしている。それでも灰乃の薬が奪われたことを知ると、茉緒は自分の居室から持ってきた医療記録用の端末を広げ、心疾患の薬剤候補を一つずつ確認した。表情はいつも以上に険しく、少しでも曖昧な情報が出るたびに灰乃へ問い直す。「代替薬を適当に使うな。心臓の薬は名前が似てるからで選ぶものじゃない」「分かっています」「分かってる奴が、残りを日数で薄く割って飲もうとするなよ」灰乃は返事をしなかった。考えていたことを見抜かれたらしい。薬を長く持たせるため服用間隔を勝手に延ばせば、必要な血中濃度を維持できず、かえって危険が増す可能性がある。茉緒は人間専門の医師ではないと言いながら、その程度のことを知らないほど薬剤知識が浅いわけではなかった。「なら取り返す」茉緒は断定するように言った。灰乃は机の端へ指を置き、航志から届いた再統合審査の残り時間を見る。22時間余り。審査が終わるまで1時間ごとに何かが奪われる可能性があり、次が薬とは限らない。武器、防御設備、保存水、それどころか広告恩寵に関係する端末まで〈共有必需品〉と判定されれば、航志の手へ移る可能性がある。残り時間を待ってから動くという選択は、最初から存在しなかった。玄理は壁際に立ったまま、灰乃の薬と残高表示を交互に見ていた。やがて自分の端末を開き、医療系ランダムボックスの出現情報を検索する。ランキング上位の彼が持つコインは少なくなく、さらに赤箱から得た物資もいくつか残っているらしい。「俺のコインを使う。医療ボックスを買える奴を探す」「必要ありません」「必要だろ」「あなたの資
安全区画を出た4人は、互いに2歩以上の距離を取ったまま中央通路へ散った。〈潜伏感染反応を1名検出しました〉という表示は消えず、誰が該当者なのかだけが頑なに伏せられている。茉緒は最初に自分の手首と首筋を確かめ、啓吾にも袖をまくるよう指示したが、目視で分かる噛み傷や引っかき傷は見つからなかった。玄理の右肩と左腕には夜狩りで負った傷があるものの、いずれも感染者の体液が直接入った形跡はなく、灰乃も自分に共有された浅い裂傷以外に異常を感じていない。それでもシステムが反応した以上、誰か1人の身体の中で何かが始まっていることだけは確かだった。「全員、自分の部屋に戻るまで誰にも触るな。体温、意識状態、瞳孔、痙攣の有無を30分おきに確認する」茉緒の声には苛立ちが混じっていたが、恐怖で判断を失ってはいなかった。人間専門の医師ではないと言いながら、少なくとも何もせず待つよりはましな監視手順を組み立てている。啓吾は青ざめた顔で何度も頷き、玄理は灰乃の腕へ視線を向けたあと、自分の傷口を見下ろした。灰乃も同じことを考えていた。バインドで負傷を共有している以上、感染まで共有されるのかは表示されていない。もし玄理が感染していれば自分へ影響する可能性があり、逆も同じだった。安全区画の白い外壁が背後で沈み始める。7人を消した霧も、そこへ縋りついていた手の跡も、数分前の出来事とは思えないほど綺麗に消えていく。その空白を見つめていた灰乃は、天井近くのメンテナンスパネルが開く音に気づいた。砲撃で破壊された箇所から1人の男が降りてくる。配線を掴んで床へ着地した航志は、服の肩や膝へ埃をつけながらも怪我らしい怪我をしておらず、自分だけが別の逃げ道を見つけたことへ安堵したような息を吐いた。灰乃と目が合うと、航志の表情が変わった。安全区画の外で7人が消えたことより、灰乃が4人の枠へ入って生き残ったことを確認した時の方が目の奥へ強い光が宿る。その視線は、昼間に紫箱を抱えていた灰乃を見た時と同じだった。妻が無事だったことへの安堵ではなく、まだ自分の手へ戻せる資源が残っていると確かめた人間の目だった。「灰乃」呼ばれても灰乃は動かなかった。玄理が半歩だけ身体の向きを変え、航志と灰乃の間へ割って入れる位置を取る。茉緒は感染反応の件がある以上、今ここで余計な接触を増やすなと言いたげに眉を寄せたが、航志はそんな空気を
〈閉鎖まで残り10分〉という数字が点灯した直後、安全区画の周囲へ新しい表示が重なった。乳白色の壁に守られた内部には、大人が十数人立っても余裕がありそうな広さがある。それなのに入口の上には〈入室可能枠:4〉と明記され、その下へ〈入室には避難鍵が必要です〉という条件が追加された。さらに4つの光点が区域図上へ散らばり、〈避難鍵を配置しました〉と通知された瞬間、それまで互いの様子を窺っていた12人が一斉に走り出した。誰かが先に動けば、残りも止まってはいられない。灰乃は中央から最も近い北側の光点を選び、玄理とは別方向へ走った。肩の痛みも睡眠不足も残っていたが、今は自分の身体を完全に休ませる余裕がない。廊下の角を曲がると、壁面の非常設備箱が白く発光しており、その中に親指ほどの銀色の鍵が浮いていた。灰乃が掴むと〈避難鍵・所有者登録完了〉という表示が出て、残る光点が3つへ減る。玄理もほぼ同時に西側の鍵を確保したらしく、区域図上で彼の名前へ鍵の印がついた。その動きに迷いはなく、自分の分を取った直後から周辺の生存者の位置まで確認している。3本目の鍵を得たのは椹木啓吾だった。電子錠や建物構造へ詳しい彼は、他の者が点滅する案内表示だけを追う中、サービスパネルの裏側へ回り込み、非常用配線に沿って出現位置を特定したらしい。細い身体を壁際から滑り出させた時には、すでに銀色の鍵を握っていた。残り1本。その表示が出た途端、中央南側へ5人が殺到した。その中に航志もいる。鍵は天井から吊られた非常梯子の下へ出現し、最初に飛び込んだ男が指先で触れかけたところを、別の男が肩から突き飛ばした。床へ倒れた身体を航志が踏み越え、横から伸びた腕を肘で払い除ける。昼間の箱争奪戦と変わらない殴り合いが始まり、誰も鍵以外を見なくなった。土師茉緒だけが、その輪へ入っていなかった。少し離れた壁際で、争奪戦の最初に転倒した男の傷を押さえている。男は脇腹を何かの刃で深く切っており、指の間から大量の血を流していた。茉緒は自分の安全区画入りが遅れることを理解しているはずなのに、シャツを裂いて圧迫し、出血点を確かめながら「押さえろ、死にたくなきゃ手を離すな」と怒鳴っていた。玄理がその姿を見た。自分の鍵を握ったまま数秒立ち止まり、そのまま茉緒の方へ歩こうとする。「これを使え」茉緒が顔を上げる前に、灰乃は玄理の腕を掴んだ。
『大好きな家族に、もう1度会いたいですか?』明るすぎる少女の声が、血と消毒薬の匂いが残る居室へ響いた。灰乃は反射的に黒い端末へ手を伸ばし、画面端の閉じる表示を押したが、指先の下で白い印が一度沈むだけで映像は消えなかった。音量ボタンも反応せず、机へ伏せても再生は止まらない。終末前の住宅広告を思わせる明るい居間では、数十分前に玄理自身の手で処置された小春が、黄色いウサギのリュックを背負って笑っていた。画面の中の小春には首の後ろの噛み傷も、発症前に浮かんだ汗もない。頬には健康な赤みがあり、黒髪は左右へ綺麗に結ばれ、その背景には白いカーテンと湯気の上がる食卓まで映っている。窓の外では鳥が飛び、誰かが焼いたらしいパンが籠へ盛られ、終末など最初から存在しなかったような光景だった。灰乃がほんの少し視線を外すと映像は停止し、〈視聴を継続するには広告をご覧ください〉という文字が中央へ浮かぶ。まるで死んだ子どもの姿を最後まで見つめることまで、報酬の代価として要求しているようだった。『今だけ家族再会キャンペーン!』軽快な電子音が弾け、小春の横へ色とりどりの風船が浮かんだ。少女は両手を広げ、その後ろでは顔の見えない男女が食卓へ料理を並べている。母親と父親を模しているのかもしれないが、小春の本当の家族なのかどうか、灰乃には確かめようがない。その画面下へ、報酬欄がゆっくりと開いた。〈最後まで視聴すると安全区域情報を獲得できます〉玄理の顔から残っていた血の気がわずかに引いた。彼は壁際に置いた黄色いリュックと端末の中の少女を交互に見てから、低く言った。「見るな」灰乃は端末を持ち直した。「見ます」「蓼丸」「情報が必要です」「他の方法を探せ」灰乃は答えず、表示された選択肢へ目を落とした。〈スキップする・報酬なし〉と〈最後まで見る〉。安全区域という言葉がどこまで信用できるかは分からないが、少なくともシステムがわざわざ報酬として提示する以上、この高危険区域を生き残るために関係する情報である可能性は高い。目の前にある情報を、苦痛だからという理由だけで捨てる余裕はなかった。灰乃が〈最後まで見る〉を押すと、30秒のカウントが始まった。小春は画面の中央へ座り、白い皿へ桃の缶詰らしい果肉を並べている。黄色いリュックの少女が桃を好きだったことを、灰乃はまだ知らない。それでもあまりにも生活
午前4時を過ぎたばかりの廊下には、夜間領域へ排出された花房夫妻の居室が消えた余韻さえ残っていなかった。全居室の防御値は何事もなかったように回復し、灰乃の扉を走っていた亀裂も完全に塞がれている。その新しい金属板を、外側から小さな拳がもう一度叩いた。大人が助けを求めて殴りつける音とは違い、ためらいがちな弱い響きだった。灰乃が監視画面を切り替えると、扉の真正面ではなく、カメラの死角に寄るように立っていた小さな人影がようやく映り込んだ。黄色いウサギの耳がついた小さなリュックを背負い、肩までの黒髪を2つに結んだ少女だった。服の袖や膝には埃がついているが、画面で確認できる範囲に大きな出血はない。年齢表示を照合すると〈粟生小春・11歳〉と出た。周辺には感染者の反応がなく、少女の背後にも誰かが潜んでいる様子はない。小春は怖さを押し殺すように口を固く結び、扉の前で泣かずに立っていた。「開けてください。お願いします」玄理はすぐに扉へ向かったが、灰乃は解錠パネルへ伸びた腕を掴んだ。花房夫妻を助けられなかった直後だからこそ、目の前に現れた子どもへ手を伸ばしたくなるのだろう。それでも、扉を開けてから感染を確認する順番だけは選べなかった。玄理が振り返ると、その目には急ぐ理由がはっきり浮かんでいたが、灰乃は手を離さず監視画面を示した。「確認してからです」「見える範囲に傷はない」「見えない場所にあれば同じです。噛まれていないか確認します」玄理の顎がわずかに強張ったものの、反論は続かなかった。灰乃はインターホンをつなぎ、小春へ両手が見える位置まで下がるよう頼んだ。少女は一瞬不安そうに扉を見上げたあと、素直に従った。灰乃が袖を肘までまくるよう告げると、小春は黄色いリュックを片方の肩へずらし、左右の袖を順番にまくった。細い腕には擦り傷ひとつなく、手の甲や指にも血はついていない。「顔を横に向けられる?」小春は右、左と顔を動かした。頬にも耳にも傷は見えず、裾を少し上げてもらって確認した膝から下にも、転んだらしい薄い汚れ以外の異常はなかった。灰乃が質問を続ける間、小春は「大丈夫です」「噛まれてません」と何度も答え、そのたびに小さな喉が上下した。怖いのに泣かないよう我慢しているのが分かると、灰乃の胸の奥に鈍いものが残ったが、それを理由に検査を省くことはできなかった。「1人なの?」「はい。
投票開始から10分も経たないうちに、蓼丸灰乃と縵谷玄理の名前は他の候補を大きく引き離していた。世界チャットには投票数とともに理由らしき言葉が積み重なり、その多くが航志の書き込みを引用している。彼は昨夜、感染者へ〈誘導標識〉を取り付けて灰乃の居室へ群れを集め、高出力砲台まで向けたことには一言も触れなかった。代わりに、灰乃と玄理が大量の特殊アイテムを所持していること、2人とも高レベルであること、他の生存者より危険区域へ耐えられる可能性が高いことだけを並べ、「最も生存率の高い2人へ任せるのが合理的だ」と繰り返していた。殺すために送り出すのではなく、強い者へ役目を任せるのだという形へ言い換えれば、投票する側も自分の指を汚さずに済む。〈縵谷玄理はLEVEL5だ。外へ出ても戻れる可能性がある〉〈蓼丸灰乃も特殊装備を持っているんだろ。俺たちより生存率は高い〉〈家族を3人も見捨ててるなら、今度は他人を助けてもいいんじゃないか〉流れていく文章を追いながら、灰乃は端末を膝の上へ置いた。多数決は、人数が増えるほど正しさに似た顔をする。自分1人では押せないボタンも、100人のうちの1票になれば押せる。強い人間なら死なないかもしれない、資源を持つ人間なら少しくらい奪っても困らない、家族を見捨てた女なら自分たちのために犠牲になっても当然だと、それぞれが少しずつ理由を持ち寄れば、最後には誰も自分が2人を殺したとは思わなくて済む。玄理は壁面端末へ表示された規則を何度も開き直していた。右肩の包帯には薄く血が滲んでいるが、先ほどから痛みを訴える様子はない。〈生存バインドペア1組を指定〉という条件を押し、排出対象の設定、投票方式、バインド解除の可否まで確認している。灰乃も隣から表示を追ったが、解除項目は灰色に閉ざされ、現在の親密度10では操作できないようになっていた。「俺だけ外へ出られないか試す」玄理が言った。灰乃はすぐに顔を上げた。「1人で出れば投票条件が満たされません」「条件を満たす必要はない。俺が先に夜間領域へ出れば、対象ペアとして成立しなくなる可能性がある」「それでも試すんですか」「他に何かあるか」玄理は本気だった。自分だけを排出させ、灰乃とのペアそのものを投票不能にできれば、少なくとも彼女は残せると考えている。その発想が出たこと自体には驚かなかった。玄理は手が届く位